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東京高等裁判所 昭和53年(ラ)729号 決定 1978年10月06日

抗告人

田辺製薬株式会社

右代表者

平林忠雄

右抗告代理人

石川泰三

外一三名

(別紙記載のとおり)<略>

主文

原決定を取消す。

本件を長野地方裁判所に差戻す。

理由

一抗告人は、主文同旨の抗告を申し立てたが、その理由の要旨は、「(1)本件で保全を求める文書である診療録は、その殆どがすでに法定保存期間の五年を越えており、しかも国公立病院所持のものを除き私文書であつて、急ピツチで廃棄されるような状況にあること、(2)法廷への顕出を求める文書が膨大な数であり、しかも北海道から九州、四国まで全国各地に散在しており、一裁判所に申し立てた場合には、当該裁判所に過大な負担を強いることになること、(3)対立当事者が、当該文書の法廷への顕出を執拗に妨害し、所持者に対し不当な組織的働きかけをしていること、(4)診療録が極めて重要な証拠でありながら本案裁判所(東京地方裁判所民事第三四部)は、その取扱いには極めて冷淡であり、むしろその法廷への顕出をことさらに排斥してきたこと、等の諸事実に鑑みれば、本件申立が民訴法三四四条二項所定の急迫事情を優に満たすものであることは明らかである。」というにある。

二一般に文書の証拠保全と雖も、「予メ証拠調ヲ為スニ非サレハ其ノ証拠ヲ使用スルニ困難ナル事情アリト認ムルトキ」(民訴法三四三条)に限つて許されるものであるから、証拠調べについての要急性をその要件としていることは明らかである。ところで、訴訟係属中にあつては、その管轄裁判所は、原則として受訴裁判所であり、「急迫ナル場合」に例外として文書所持者の居所を管轄する地方裁判所又は簡易裁判所もまた管轄権を有することとなるのである(同法三四四条一、二項)。従つて右にいう「急迫ナル場合」とは、通常の証拠保全の要件とされる要急性の度合を一段と高めたものであることも見易い道理である。しかし、その程度が幾何かは、結局は保全されるべき文書をめぐる諸般の事情を綜合的に勘案し、右の一般的要急性をふまえて、それとの対比において決するのほかはない。そこで文書が何らかの事由で滅失ないし廃棄の時期に来ており、もしくは近く来る状況にあつて、証拠保全の一般的要急性を充足する場合に、更にその文書が大量でかつ各地に分散し、一受訴裁判所の証拠保全手続を以てしては、地理的労力的に多大の時間を要するものと認められるときは、文書の滅失ないし廃棄の可能性は一般とすすむわけであるから、ここにいう「急迫ナル場合」にあたると解するのが相当である。

叙上の観点から本件をみるに、記録によれば、本件で証拠保全を求める文書である診療録(俗にカルテと称されるもの)は、長野県の国公立病院及び私立病院(医院)によつて所持されているものであるが、その大半は後者であり、またすでに法定保存期間の五年をこえているものが大部分であつて、緊急かつ継続的に廃棄される状況であることが一応認められるから、証拠保全の要件である一般的要急性を充足するというべきところ(ちなみに、本件診療録がその要証事項にとつて明白に不必要なものとはにわかに断じ得ず、また文書提出命令による証拠調べに明らかに適合しないものとも即断し得ない)、これらの診療録は、その数量において極めて大量であり、しかも地理的に長野県内のかなり広範囲の土地に所在していること、本件における本案訴訟は、裁判史上稀にみる程大規模ないわゆる東京スモン訴訟であつて、受訴裁判所である東京地方裁判所に係属中同種事件の同種診療録は、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州の各地方にまたがるより広範な土地の各種医療機関によつて所持され、かつ数量においてもより大量に存在するものであること、従つて本件受訴裁判所の東京地方裁判所に集中して証拠保全の申立てがなされるにおいては、その地理的、労力的要因からして、これが処理に多大の時間を要する状況にあることもまた記録によつて一応認められるのである。

以上の事実関係に徴すれば、本件が訴訟係属中と雖も文書所持者の居所の地方裁判所又は簡易裁判所に証拠保全の管轄権を認むべき「急迫ナル場合」にあたるといわなければならない。この理は、原決定が指摘する現代の交通機関ないし通信手段の発達程度を考慮に入れても変るものではない。そして、抗告人が地方裁判所をえらぶか簡易裁判所をえらぶかは、その自由であるから、結局本件については、長野地方裁判所がその管轄権を有すべきものとしなければならない。

三よつて、右の「急迫ナル場合」にあたらないとして本件申立を却下した原決定は失当であるからこれを取消し、本件を長野地方裁判所に差戻すこととし、主文のとおり決定する。

(西村宏一 高林克己 高野耕一)

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